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星との出会い

時代は、私の小学生の頃に、さかのぼります。 私は、小さい頃から絵が好きで、今から思うと 鮮やかな絵や写真に、いつも心をひかれていた少年だったように 思えます。小学校4年の時、図書館で「私が作った望遠鏡で、 こんな星空を写しました。」という雑誌の記事を見たんです。 それは、鮮やかな色の星空でした。確か、射手座の銀河の中心部の 写真だったと思います。そんな記事を眺めているうちに、 少しずつ興味を持ったのです。 毎日、図書館へ通っては、いろんな星の本を読みました。 ある日、ギリシャ神話の書かれた大きなA4判の本を見ていたんです。 その付録に紙で作れる星座早見盤があったんです。 私は、早速その本を借りて、家で紙を使って星座早見盤を作っていたんです。 1つ1つの星座の星を丁寧に転写していったんです。それを傍らで、親父が 見ていました。私の家は、プレス加工の工場です。親父は、 「紙だと、もたないから、そこに金属を付けてあげよう〜。」 そう言って、アルミを切断機で切り、ヤスリがけをして金属板で補強してくれたのです。 そして、子供達のために、これを工場で作ろうと言い、 この本の著者の水野良平 氏のもとへ伺ったのです。(私の師です。) 神奈川県横須賀の水野氏の自宅は、大きな望遠鏡を設置した天文台だったのです。

師に星空を見せて戴いた日々

この水野良平という方は、元渋谷の五島プラネタリウムの解説員を 長く勤め、東京天文台の元技官というお爺さん。 私は、毎週土曜日に、この先生の自宅に行っては、星を見せて 戴きました。その当時は、小林バーガーミロン彗星が見えてましてね。 尾は、見えないものの、丸い雲の塊を見た記憶があります。 そこでは、いろんな事を教わりました。 (私は、出張して今のサービスをした時に、 その当時教わった事も、子供達に教えています。) そして、出会ってから1年後の夏の夜8月も終わりの頃でした。 水野氏は、亡くなりました。それも私が、伺った日の夜。 私が「こんばんはー。」と言うと「うー、うー。」と答えていたので、 私が自宅を訪れた事を承知しながら、亡くなったと思います。 生前、「君は、プラネタリウムの解説員にでもなったら、どうかな?」 と、言われていまして、私が大学時代にそういう仕事に就けたのも、 何か守られていたのでしょうか???

望遠鏡1号機

私は、今まで毎週、望遠鏡で星を見せて戴いていたので、 すぐにでも天体望遠鏡が、欲しくなりました。 親に買って欲しいと言っても、当時最低でも15万円以上は しましたから、高価でとても買えません。 そこで、自分なりに虫眼鏡を使って何とかできないものかと、 小学校の理科の先生に、望遠鏡の作り方を教えて欲しいと 頼んだのです。 理科の先生は、こう言いました。 「理科室に凸レンズと凹レンズがある。これらを組み合わせて みれば良いだろう〜。あとは、自分で考えろー。」と投げやりに 出てきたのです。私は、先生なのに教えてくれないのか??? と、内心腹をたて、理科の授業にも出ないで、理科室脇の ベランダから、レンズを換えては研究していたのです。 何時間も授業に出ないで、ベランダにいるので、 クラスメイトが、先生の言いつけで呼びにきた事もありました。 そして、何週間か経ったある日、凸レンズと凹レンズを 組み合わせると風景の色が、青くならない事を発見、 それを理科の先生に言いましたら、「色というのは、波長がある。 波長の関係で、屈折率が色によって変わるのだ。 だから、凸レンズだけだと、青く見えてしまうんだよ。 良いところに気がついたねー。」と誉められ、有頂天になった記憶が あります。 これで、レンズの構成がわかったものの、どうやって作ろうか??? と思案していると、ある理科の教材を売ってるメーカーを 紹介してくれました。日野金属産業梶i現在のミザール社)です。 当時は、目黒区の碑文谷というところに小さな工場と事務所がありまして、 そこへ行って、望遠鏡の作り方の講義を受け、レンズを調達してきたのです。 家に帰るなり、教わった通りに設計して親父に製作を頼みました。 塩ビの水道管を旋盤で、穴ぐりをしたり、ドリルで穴をあけて、 レンズをビスで止めたり…と。 それで、出来あがった望遠鏡は、今でも2連式望遠鏡の上の 望遠鏡として使っています…。 ちなみに、この望遠鏡で月を見たときは、クレーターの詳細が わかって、とても感動した事を覚えています。

プラネタリウム解説員への道

時代は中学になりますが、3年の時にずーっと貯めていた お小遣いをはたいて、口径10cmの反射望遠鏡を買いました。 そして、写真撮影にも没頭したんです。 今でも、私の部屋には、当時撮影した皆既月食の赤銅色の月の写真が 飾っています。私のお気に入りなんですよね。 そして、高校に上がり、プラネタリウムのある地学部に入ったのです。 高校は、日大豊山高校です。 高校卒業後に、品川区の五反田文化センターというところで、 解説員を4年務めたのであります。 その時も、子供達に夢を与えるために、私の話題は、 歳差運動を利用しての、**千年前の****の空という ようなタイムマシーンにでも乗って旅をする話題が、多かったと思います。
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